2020年04月03日

宜しくお願い致します

今月24日金曜日に穂の国とよはし芸術劇場アートスペースプラットで予定されていましたコンサートは随分と先ですが来年1月22日金曜日に延期となりました。
場所、開場開始時間、チケット料金など全く同じです。
今回のチケットを既に購入して頂きました方はチケットを保管していただきそのままチケットをご使用いただけます。
日程が合わない方は払い戻しいたします。
ご迷惑をおかけいたします。
何卒よろしくお願いします。


  


Posted by ガッキー at 12:26Comments(0)

2020年04月01日

4月24日のコンサートですが…

4月24日に穂の国とよはし芸術劇場アートスペースプラットにて行われる予定でしたコンサートですコンサートですが延期します。
苦渋の決断です。
いらしてくださいますお客様の健康と安全、安心には変えられません。
既に購入されたチケットに関しましては延期日程が決まりましたらそのコンサートでそのままご利用いただけます。
延期日程に都合が合わない方は払い戻し対応いたします。
延期日程すぐに決めますのでそうしましたらまたお知らせ致します。
何卒よろしくお願いします


  


Posted by ガッキー at 15:25Comments(0)

2020年03月23日

昔話54 震災8

山田町へ通う事を決めたのは良いのですがなんせここはすごく遠いです。
東京から約680キロ。
当時は盛岡まで行って下るか花巻の方から遠野を通って釜石から北に登っていくパターンとあります。
内陸の遠野を通って行く時冬はいつも雪が降っていた記憶があります。
山田町は昔涼しいなと思ったのですが最近では夏はかなり暑い日がでてきました。
避暑地だった様です。
震災のあと1〜2年は町の中が海というか海藻というかそういう臭いがしていました。
山田町で老人施設や仮設住宅、保育園、小学校、中学校、民家など様々なところをまわりました。
びはんという山田町のスーパーマーケットでも弾いた事あります。
ありとあらゆるところでやりました。
勿論店前やストリートでも。
葬儀でも弾いた事があります。
津波を乗り越えて頑張ってきたがなくなってしまった方をお送りしました。
そんな中ある方から依頼がありました。
津波でお孫さん2人を亡くした方のおじいさん、おばあさんからです。
娘さんが子供を失ってから感情を閉ざしてしまったらしい。
一歳と四歳。
津波が来て父親が保育園に子供達を車で連れに行ってしまい津波にのまれたそうだ。
父親は助かったのだが娘2人は残念ながら亡くなってしまった。
そのおじいさんおばあさんの娘さんが子供を亡くして外に出なくて感情を表に出さない事をなんとかしたいと思い僕らが色々なところで弾いているのを知って娘さんの前で弾いてくれないかと依頼が来たのだ。
僕らで力になれるのならと引き受けた。
次回はこの続きを書きます。
  


Posted by ガッキー at 21:50Comments(0)

2020年03月20日

コンサート宣伝

コンサートの宣伝です。
4月24日金曜日

穂の国とよはし芸術劇場プラット
アートスペースにて
18時開場18:30開演
一般2500円 高校生以下1000円 当日500円増し
にてバイオリンとピアノのコンサートを行います。

ゲストでパーカッションもはいります。



このコンサートの宣伝のために出身中学校豊岡中学校と岩田小学校へ行き校長先生にお会いしてきました。








それからFM豊橋さんのだまきの部屋にてアピールさせていただきました。



コロナ対策万全でお迎えします。
座席1つ1つを僕が全て消毒して滅菌します!
是非いらして下さい。
  


Posted by ガッキー at 22:42Comments(0)

2020年03月18日

昔話53 震災7

岩手県下閉伊郡山田町というのが正式な名称。
ここは海岸沿いにある小さな漁村。
北には宮古市、南に釜石市などの大きな市に挟まれている。
この前書いた通り給食がなく町が5億の負債を抱えて老人だらけだったら小さい子を持つ親は隣りの大きな市へ引っ越しますよ。
震災後この町町会議員の集まる会議が傍聴出来ると言うのでみてきた。
単刀直入いいます。
酷い…
まるで学級会。
司会者が自分の意見を述べている…
出席してない町会議員も…
司会者も酷いし好き勝手に喋ってる。
代表者がこれでは決まるものも決まりません。
よくこんな人達が町会議員になれたものですね。
まともな議員さんは2人くらいですね。
あとはろくでもないと思ってしまいました。
その地域の事など色々わかりません。
しかしあの人達がトップならこういう現状になるのも仕方ないのかと思ってしまいました。
山田町にはもっと若くてまともな人達いるのになぁ。
選考基準を考え直した方がいいですね。

さて、山田町へ訪れたのは2011年10月でした。
レスリング道場に寝かせてもらいました。
夜中が寒すぎて温度みたらー1度で敷布団の下に寝ました。
避難所、老人ホームなど色々まわりました。
山田町のレスリング道場をやっている上野先生に様々なところへ連れて行っていただきバイオリン演奏しました。
皆さん本当に喜んでくれてたくさんの笑顔とお言葉をいただきました。
そして貴重なお話しを伺いました。
そうして前回にも書きましたがぼは被災地は山田町に絞って応援をしていこうときめました。




  


Posted by ガッキー at 16:30Comments(0)

2020年03月18日

昔話52 震災6

被災地は何回行ったかわからない。
多い時は月に3回くらい行った。
宮城、福島、岩手の三県にいったが最終的に岩手県下閉伊郡山田町に通う事にきめた。
山田町は小さな漁村。
震災後人口は15000人をきるくらいに減ってしまった。
とてもお年寄りが多い町。
理由がある。
学校給食がないのだ。
震災前からない。
母の愛情のこもった弁当を食べさせるという事でそれを昔から続けてきている。
時代錯誤もはなはだしい。
子供もそれなりにいる。
訪問した山田中は全校400ちょいいた。
子供達に温かいご飯を食べさせてあげたい。
子供達は給食を食べた事がないので給食という言葉を知らない。
仮設住宅の小さな台所で毎朝弁当作りは大変。
そして山田町はラバネットという悪い会社が入り約5億円弱の負債を負ってしまった。
お年寄りだらけのこの町はどうなるのだろう。
津波では約800人弱の人がなくなられた。
僕の応援する理由は弱い人を応援したい。
子供、お年寄りに対し厳しい環境だと思う。
だから僕は山田に通うことに決めた


  


Posted by ガッキー at 03:10Comments(0)

2020年03月17日

昔話51 震災5

音楽や物資を届けるのがメインだったが他の事も勿論やった。
日本各地から送られてきた物資の仕分けや瓦礫撤去、泥すくいなどなど。
やりながら終わりのみえない作業にただ愕然としていた。
避難所から仮設住宅へ移るときの被災者さんの様子も面白かった。
ウキウキしてる人と抽選に外れてイラついている人様々だった。
仮設住宅と言っても僕の印象ではとても綺麗で住み心地良さそうにみえた。
少なくとも僕の当時住んでいた家よりはキレイで広くて新しかった。
「僕の住んでるところよりいいじゃん。」
それが正直どこの仮設住宅を見た時も思った事だった。
仮設住宅の集会所のようなところでもよくバイオリンを弾きに行った。
不思議に思った事はリクエストを募るとほとんどの所で海にちなんだ曲をリクエストされる。
津波であんなに酷い目にあったに、こちらの人達はやはり海と共に生きてきたんだなという事を認識させられた。


  


Posted by ガッキー at 15:46Comments(0)

2020年03月16日

昔話50 震災4

毎月通ううちにたった1ヶ月しか経ってないのものすごい勢いで変わっていった。
父の影響であまり自衛隊に対して良い感情を持っていなかったがその考えはかなり変わった。
道を作ったり瓦礫をどけたり被災者を励ましたりお風呂を作ったりとありとあらゆる事をしてた。
彼等にも家族があるだろう。
帰りたいし心配に違いない。
しかし任務を全うしている。
自衛隊は軍隊ではないと言っているが誰がみても軍隊だ。
しかし、人を殺したり傷つけたりした人数より助けた人数の方が圧倒的に多い軍隊は日本だけだろう。
これはとても誇らしい。
通ううちに被災者の方々も物資などもらい慣れてきて少し図々しい人もいた。
それと変なボランティアが人の為にした事かも知れないが中途半端な実力なのに演奏したり歌ったりに被災者の方々はうんざりしている様子だった。
だからバイオリンと言った時点で要らないという被災者さんも少なくなかった。

  


Posted by ガッキー at 21:03Comments(0)

2020年03月14日

昔話49 震災3

何回か通ううちに物資が届きやすい避難所とどどきにくい避難所がある事がわかる。
届きにくい端の方の避難所は電気も通ってないところがある。
そこにはなるべく自分達のものを持っていった。
全国各地から届けられた物資が集まるのだが、食べ物など捨てられていた。
レトルトとか賞味期限が過ぎている。
水などの期限がすぎていてもトイレを流す時の水として使われるけどそれいがいの食料はたいてい捨てられていた。
悲しく思ったがどうやら配る人が足りなくて余ってしまうのだ。
なのでなるべく被災者の皆様に必要な物を聞いて翌月に持ってくるようにした。
在宅避難者にも配っていたらそこに避難所生活の人が通って「俺たちによこせ、お前達は家があるじゃないか!俺たちはみんな失ったんだ」と喧嘩になった。
在宅避難者は確かに家は残ったかもしれないが仕事も食料もない。
そういう点では被害者なのだ。
誰が優先とかはない。
僕の中では女子供弱い存在が優先。
なので僕らが持ってきた物を誰に渡すのかは自由なのでそこは避難所生活の人には諦めてもらい他の物を少し渡して納得してもらった。
家が潰れたところや建物の上に船がのっかってたりとても考えられない光景をみた。
色々なところに旗のようなものがちょこちょこたってた。
何だろう?不思議な思い聞いてみた。
その旗の下には亡くなられた方がいるとの事。
重機が入らないから瓦礫などどかす事が出来ない。
だから印としてたてているらしい。
災害救助犬?のような犬がきて探してくれたのだろう。
その旗をみるとわりとポツポツとたっていた。
何も出来ない悲しい気持ちとここからどうなるんだという不安な気持ちなど色々入り混じって頭がおかしくなりそうだった。
次回も続きを書いていきます。


  


Posted by ガッキー at 21:56Comments(0)

2020年03月13日

昔話48 震災2


TVみた被災地に初めて行くと決めて気持ちはとても高ぶっていた。
自分が行くことで色々と役に立てるという根拠のない自信があり恥ずかしい事だが弱い人達を助ける英雄にでもなったつもりだった。
知り合いがホウシャノウをはかる機械をもっていて福島を通る時ピーピー音が鳴り響いていたのには少し恐怖を感じた。
トンネルをくぐり南三陸町の風景が目の前に飛び込んできた時高揚していた気持ちは一気に絶望へと変わった。
戦地へ行った事はないがまるで爆撃でもうけたような町が広がっている。
途中から道がほとんどなくなる。
自衛隊が瓦礫をあけてくれたわずか1台車が通れる道を進む。
学校が大きな避難所となり物資が集まっていた。
ワンボックスカーにトレーラーを牽引してきてそのトレーラーに物資の一部と4輪バギーを2台積んできた。
日帰りのつもりだったがその日は一泊車中泊する事にした。
大きな避難所の学校に車をとめてボランティアセンターに物資を配る手伝いをすると言ったら拒否された。
ボランティア保険に入ってないのと配るシフトを組んでいるからそれがグチャグチャになると困るというのが理由の様だ。
それなら自分達が持ってきた物資を配るのはこちらの勝手だという事で自分達で動く事にした。
ぼくはバギーに物資を積みバイオリンを背負ってボランティアセンターで避難所の位置を確認して道無き道を走って物資を届けた。
そして避難所で「バイオリン聴きませんか?」と聞いたら皆さん不思議そうな顔をしていたのを覚えている。
しかし物資と音を届けた事をとても喜んでくれた。
そして夜車中泊の時は交代で1人ずつ起きていた。
ガソリンが不足していたのでそれを盗みにくる人がいるため見張りで交代でおきていた。
4月なのに夜はとても寒かった。
今回の事でなるべく毎月行こうと決めた。
次回も震災の事を書きます。



  


Posted by ガッキー at 09:17Comments(0)